2011/03/03

東武鉄道の大英断


朝一番に新聞を広げて、このニュースに驚倒いたしました。


http://www.asahi.com/travel/rail/news/TKY201103020540.html
スカイツリーの玄関口、レトロに模様替え 浅草駅ビル


屋上の遊園地は廃止、上階は閉鎖と、このところ不景気な話題しかない東武浅草駅(浅草松屋デパート)が、乾坤一擲の大勝負に出るようです。凄い。本気だろうか。


東武浅草駅ビルの現状。


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何だかパッとしない建物に見えますが、これは満州事変の年、昭和6年(1931)完成の駅ビルなんです。昭和40年代に、老朽化した洋式建築の外装の上にアルミのパネルを貼ってしまったんですね。日本橋の東急(白木屋)の晩年も同じでした。

 
完成時の姿はこちら。すばらしい大建築です。

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設計の久野節は、大阪の南海ビルディングも手がけている建築家。

奥のアーチが連続している部分が、東武線のプラットホームがある場所になります。ちなみに右上に見える鉄橋は現役。ビルを出た電車は、ものすごい急カーブをゆっくりと曲がって隅田川を渡ります。
写真右下に見えるへんな塔は雷門ビル(地下鉄ビル)といいまして、尖塔こそ失われていたものの、数年前まで健在でした。


この建物、実は方々にかつての痕跡を残しています。

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ビル裏手の壁面。パネルを貼っていない部分はこんな感じです。

 
 
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階段室と手すりの装飾。

 
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踊り場にある怪しげな扉。

 
ほんとに復元できるのかいな、とちょっと心配になってしまうだが、実現したら名実ともに浅草のランドマークになると思われる。ものすごく楽しみである。現在、浅草駅前で往年の面影を保っているのは神谷バーと地下鉄の出入口くらいなのだ。

 
浅草という街は、懐かしの風物を売り物にしているわりには、戦前の見事な建築物を次々と破壊してきた歴史をもっている。国際劇場から始まって、六区の映画館(常盤座や東京倶楽部の素晴らしかったこと!)、仁丹塔、数々の看板建築、雷門ビルと、戦前の歓楽街の雰囲気を感じさせた名物建築が消えていき、訪問するたびに残念な思いをしてきたのである。川向こうの吾妻橋ビヤホールがうんこになってしまって久しいが、あれを見てももう何とも思わなくなっている自分がまた悲しい。

しかしまあ、改装していたとはいえ、下にオリジナルがあったからこういう計画ができるわけです。どうやら古い建物が本格的に商品になる時代がやってきたようだ。だって、丸の内では莫大なお金をかけて、明治時代の三菱一号館を再現してるんですよ。本物を壊したのに

三菱のプロジェクトを目前で見ながら、三信ビルを解体した三井不動産は、本当に失敗したと思うよ。あれは建物だけで人を呼べた物件だったのである。
 
 

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2011/01/19

東京スカイツリー雑感

 
都心部をめぐると、嫌でも目に入る東京スカイツリー。本当に下町のどこからでも見えます。いいのかな、と思うくらい。
このタワー自体を仕事で撮影したことはないんですが、日々成長していく姿はやはり面白く、取材地で見かけるとカメラを向けてしまいます。
 

 
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浅草隅田公園近辺から。2010年3月撮影。
 
 
 
東京都下、私の勤める学校でのお話。西武線沿線の小さな町の中学校です。
生徒が廊下をバタバタと走ってきて報告します。

「先生、スカイツリーが見えるよっ」

「ほんとかい? あっちは埼玉の筈なんだけどなあ。どれどれ」

「ほら、あそこだよっ!」

  

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「うーん、あれはたぶんちがうと思うぞ…」

  
 
 
 

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2010/07/17

東京駅で心震える その2

  
赤レンガの名建築として親しまれてきた東京駅舎は、明治を代表する建築家・辰野金吾の設計。平成15年(2003)、国の重要文化財に指定され、戦災で修復されたデザインを創建当初の姿に戻すべく、現在大工事が行われている。
 
 
明治36年(1903)に中央停車場の設計を受注した辰野は、実に7年の歳月をかけて、いくつかの設計案を作成していった。採用された案は、バルツァー案の分散した建物をひとつにまとめ、横方向に長すぎるデザインを修正するため3階建てにしたものである。全体のバランスはよくなったが、本屋の長さは実に184間(331m)に達するものになった。中央停車場は6年9ヶ月の工期を経た大正3年(1914)に竣工。東京駅と命名され、12月18日、開業式が挙行されている。
 皇居の正面に建設されるわが国の中央駅であること、また日露戦争の終結直後であり、記念碑性の高い建築物を求められたことが、辰野自身がのちに「博覧会の陳列館見たやうな」と表現した、当時世界にも例のない長大な駅舎を誕生させることになった。
 東京駅の意匠はクイーン・アン様式とよばれるものである。これは19世紀終盤、ヴィクトリア朝の末期に流行したフリー・クラシック様式のひとつで、おもに住宅、都市部で軒を連ねる町屋に多くみられたデザインだった。辰野はこの大きすぎる建物をひとつの建築としてではなく、通りに連なる家並みに擬したのだろう。
 屋根上に大小の塔屋やドームを並べ、さらに壁面を御影石の水平線で飾るスタイルを辰野は好み、同デザインの建築物を数多く残した。重要文化財に指定されている日銀京都支店(京都文化博物館別館・1906)や日本生命九州支店(福岡市赤煉瓦文化館・1909)などは、今なお街のランドマークとして健在である。これらのデザインは「辰野式」と通称されるようになり、明治・大正期のレンガ建築に大きな影響を与えることになった。

 
これは2007年3月、雑誌『荷風!』(日本文芸社)11号に書いた文章を再掲したものです。丸の内・八重洲の大特集で、私は連載している「建物探訪」のほか、巻頭の東京駅の歴史ページを担当しました。鉄道ファンが買ってくれたのか、この号は早々に完売となってしまい、バックナンバーも残っていないんですよ。


さて、今回の工事の外観上のポイントは、


1 戦災で失われた最上階を復元する。

2 南北の乗り場の三角屋根を、八角形のドームに戻す。

3 建物正面の装飾を復活させる。


の3点が中心となっているようです。

 
駅のイメージが大きく変わるドーム屋根の復元は、ずいぶんとマスコミでも取り上げられています。しかし、今回工事の現場を見て衝撃をうけたのは、1なんですね。最上階の復活。
 
われわれが長い間親しんできた東京駅は、素敵な建物ではあったけれど、ずいぶんと横ににひょろ長い印象だった。本来3階建てだった建物が、戦争中の空襲で焼けてしまい、戦後の応急処置で3階部分を削って屋根を置いたのである。


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2007年撮影。写真はクリックすると拡大します。

よくよく見ると、三角屋根が大きすぎてバランスが悪いんですね。横に伸びる建物が、なんだか3つのドームをつなぐ渡り廊下みたいです。 
 
 
それでは、工事中の東京駅をもう一度見てみましょう。
 

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いかがでしょう。駅がデカくなったのがお分かりでしょうか。
おそらく以前より3~4mは背が高くなっています。

 
前出の文章で、私はクイーン・アンのデザインを「通りに連なる家並みに擬した」のだろうと書きました。これ、あたってました。ちょっとしたビル街みたいになりそうです。
 
戦災を受ける前の写真は数多く残っているし、ずいぶん見てきましたよ。でもね、3階建ての東京駅が(まだシートと足場だけなのに!)、これほどの規模のものとは思いませんでした。見上げるとすごい存在感。圧迫感すら感じます。
 
いやあ、完成が楽しみですよ。非常に楽しみ。三菱1号館が完成したときから、結構期待していたんです。あの建物については悪口も書きましたが、やっぱりいい出来なんだよね。あのレベルで復元できればいいのだけれど。

 

 
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中央改札左右の小出入口。
戦災復旧では失われていた部分で、独立した塔屋をもつ。
ここの復元が私は一番期待している。



 
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ドームの八角形の覆いに注目。



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こうなります。
(『ペーパークラフト・東京駅』集文社 表紙絵より)



まわりをすっかり超高層ビルに囲まれ、復元しても何だか淋しいものになりそうだと思っていましたが、どうやら杞憂かもしれません。辰野金吾お得意の、ギャラギャラとした飾りつけと、紅白饅頭のような色使いが完成当時の美しさで蘇ったら、おそらく21世紀のビル街にも負けない。復元建築でこんなに心が震えたのは初めてである。

 
しかしこれ、完成後に賛否が分かれるだろうな。あまりの変化に戸惑う人も多いと思いますよ。なじみの薄いデザインへの復元を反対する声もあったし。
(建築当初の姿だったのは約30年間、2階建て・三角屋根の時期はその倍の60年あまりだから、この意見もまあ分からないでもない)


何にせよ、復元予想図だけでは絶対にこの衝撃を感じることはできません。東京駅周辺にお越しの際は、ぜひ見上げてみて下さい。
 
 

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2010/07/14

東京駅で心震える その1

 
週末、子供と中央線に乗って、東京駅へ新幹線の見物に行った。

親子ともども乗り物が好きなので、ときおりふたりで近所の電車に乗って遊んでいる。息子は5月に3歳になったばかりで、東京駅までの乗車は彼にとって大遠征である。途中で飽きたらすぐに帰ってくるつもりだったが、満員の列車にも我慢して、ドアの手すりにつかまって立ち、一丁前に窓の外なんぞを眺めている。国分寺から新宿を過ぎるまで、文句を言わずに立っていたのには感心した。

 
「あ、タモリたん」 

御茶ノ水駅を過ぎたあたりで、息子が車窓を指差して言った。

何かと思ったら、ニコライ聖堂でありました。彼は『ブラタモリ』 のファンでして、神田特集か何かでタモリがニコライ堂の鐘をついていたのを覚えていたらしい。しかしよく見つけるよ。

 
そんなこんなで、東京駅に到着。
 
 
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最近の新幹線は、みんな悪夢のような形をしておりますな。

 
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わが息子、しばらく眺めているうちに案の定、「乗りたいー」 と言い出した。西武多摩湖線だったら何往復でもつき合ってやるのだが、子供の散歩で新幹線に乗るのはちょっと、いや、かなり痛い。当然ながら説得をこころみる。

「あのね、新幹線というのはすごーく早いの。びゅわーんびゅわーんと、飛んでるように走っちゃうの」

「うん」

「1回乗るとね、ものすごーく遠くの、全然知らない街にいっちゃって、もう帰ってこられないの」

「うん」

「かーたんは悲しくて泣いちゃうし、バーバやバアちゃん(両祖母ですな)やルカ姉さん(いとこです)にも会えなくなるし、もう大変なことなの。家庭崩壊に一家離散、みんな地平線に沈む夕日を仰ぎながら、泣きの涙に暮れちゃうんだよ。そうしたら困るよね」

「うん」


赤レンガ駅舎の改築状況をチェックするため、丸の内口へと向かう。今回の親の目的は実はこちら。

中央通路はタカラトミーのアンテナショップがあり、ミニカーとグッズが大量に飾られている。トラップのようなもので、そんなところを通るわけにはいかない。ルート選びもなかなか大変である。

改札口を出て、シートと足場に覆われた駅舎を見上げた。
 
 
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おおお。


いやあ、しびれた。久々に心震えましたね。

 
次回に続きます。
 
 

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2010/03/01

雨あがりの日曜日

  
期末テストも一段落したので、都心部へ取材へゆく。雨の中、日比谷公園から内幸町へ出ると、雨カッパを着込んだ人の列が延々と続いている。
 

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そうか、今日は東京マラソンだったのか。
(写真はクリックすると拡大します)

 
 
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それにしても気の毒な天気になってしまった。
 
  

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日比谷公会堂前。20キロ地点で、タイムリミット直前の秒読みをやっていました。係の人はもう清掃に入ってる。
 
 

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歌舞伎座前。
雨があがりました。よかったね。
 
 
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今回は歩くところ歩くところ、なぜかみんなコースにひっかかる。
まもなく解体工事に入る歌舞伎座を撮っておこうと思っていたんだけど、何だか変なことになってしまった。
 
 
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まあ、来年以降は見られない風景になるわけですが。
 

 
年に1度の大イベントにあたってしまい、少々調子が狂いましたが、おかげで面白いものも見ることができた。首都高1号線・新富町の出口が、マラソンのコースにあたるために閉鎖されていたのである。
 
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入船橋からちょっとだけ降りてみた。

 
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ここは旧築地川を埋め立てて造った道路で、護岸の石組みも残っている。この先に三叉路の橋で有名な関東大震災の復興橋梁、三吉橋があります。


日比谷から銀座、築地、京橋、日本橋と歩き、最後に十思(じっし)公園へ。隣接する十思小学校とともに整備された震災復興公園である。散歩する年配のご婦人から、戦前の話をいろいろ伺うことができました。昔を知る人の話を聞くのは、どうしてこんなに面白いんでしょう。

 
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帰宅後、ネットで何気なく十思公園を検索してみた。ところが一番最初に拾うのが、この公園を心霊スポットとして紹介するHPなのだな。ここは小伝馬町の牢屋敷と刑場の跡で、江戸時代を通じて数万人の処刑を行っているのである。
 
うーん。ミステリーは嫌いではないけれど、何だかなあ。いろいろ調べると、この公園には面白い歴史ネタがいくらでもあるのにね。
 
園内には立派な日露戦役の忠魂碑があって、どうやらこれが怖いらしいんだけど、そんなこと分かりゃしません。いつものように一礼してから、木立をかきわけて裏手に回りこみ、裏の碑文をじっくり読んだ。この季節は蜘蛛の巣がかかっていないのでありがたい。脇に昭和13年に建てられた小さな碑があって、「大日本國防婦人會 日本橋支部第二分會」 なんて刻んである。歴史ファンにはたまりません。

わずか65年前に、ひと夜で10万人が亡くなっている下町で、江戸時代の心霊スポットってのもあまり説得力ないですよ。
 
 
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おしまい。
 
 

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2010/02/15

ある既視体験 その2

 
 
夢に出てきた工場の話の続きです。べつにミステリアスな方向へは話が進みませんので、そのへんを御期待の方は、少々退屈かもしれません。

20代後半から本格的に全国の近代建築を撮影するようになり、各地の作品を調べているうちに、この建物の正体が判明した。京都市東山区馬道通り、五条大橋からちょっと入ったところにあるこの工場は、「関西テーラー」 といい、歴史的建築物の愛好家にはかなり知られた物件である。もとは村井兄弟商会の施設で、明治33年(1900) にタバコ工場として建設された。日本で最も初期の民間工場建築である。タバコが専売制になったあとは専売公社の施設になり、さらに第2次大戦後に払下げられたらしい。
 
創業者・村井吉兵衛は、明治期の京都を代表する実業家のひとり。「天狗煙草」で有名な東京銀座の岩谷松平とともに、タバコの製造・販売で巨万の富を築いた人物で、昭和恐慌で破綻するまで、銀行経営・石炭・石油・生糸と、さまざまな分野に事業を広げていた。ちなみに村井と岩谷が製造販売していたタバコは、それぞれ意匠をこらしたデザインのパッケージを生み出し、カラー印刷のカードをオマケにつけたりして人気を博した。両社の印刷部門がのちに東洋印刷、凸版印刷のルーツになったという。
 
さて、前回ご紹介した写真は、3年ほど前、関西を取材したときに撮影したものです。初めて遭遇したときの印象に近づけようと思い、フォトショップで加工してみたんだけど、全然センスがないものだから、妙な仕上がりになっちゃった。

実際はこんな感じです。
 

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周辺はごくごく普通の住宅地である。大きなビルも少なく、突然現れる赤レンガの大建築はかなりシュール。この写真では、近隣の家々が改築されてそこそこ新しくなっているけれど、昔は看板建築の商店と京町家ばかりだったので、ハイカラな工場との対比が鮮やかというか何というか、何とも不可思議な街並みであった。 
 
 
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ちなみに行き止まりの正面ではなく、道は右にカーブしています。
工場の前の道は、馬車をつなぐために広くしたのだという。

 
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馬をつないだ鉄輪。
 
 
古都というイメージばかりが先行しがちですが、京都は琵琶湖疏水や路面電車の建設、上下水道の整備など、明治以降は西欧文明をあいついで導入し、近代化をいち早く進めた都市でもあるんですね。市内には明治大正期の洋風建築が結構残ってまして、見学できるものとしては、村井吉兵衛関連では円山公園の長楽館(ものすごい豪華)、七条通りの村井銀行七条支店が有名です。延暦寺の比叡山会館にある大書院は、村井が東京赤坂に建てた豪邸(山王御殿) の一部を移築したものです。

京都は歴史的建築を上手に活用している施設が多く、この工場も一部を東山IVYと称して、宿泊施設に活用していた(蔦はからまっていなかったが)。いつか泊まってみたいと思っていたら、2009年の夏、あっという間に全棟が取り壊されてしまった。
 
うーん。実に残念。立派な記念碑もあったし、この建物は保存されると思ったんだけどなあ。

 
今度夢の中に出てきたら、怖さよりも懐かしさを感じてしまうかもしれません。
 
 
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2010/02/13

ある既視体験 



子供の頃、高熱を出すと必ず同じ夢を見た。


同じような経験をお持ちの人も多いだろう。目覚めてから思い出しても、どうして怖いのかうまく説明できず、もどかしい思いをする。 

私の場合、夢にいつも登場するのは、夕暮れ時のごみごみとした街並みだった。別に怪物が現れたりするわけではない。住宅地や小さな商店が並ぶ通りの突き当たりに、レンガ造の古い工場が壁のように立ちふさがっている。それだけのことだが、その風景がどうにも陰鬱で怖いのだ。体調が悪く熱があるときは、またあの夢でうなされるだろうと予想がついたので、寝入るのが苦痛だった。

最後にこの夢を見たのは、高2の春である。突然夢のなかに風景が現れ、驚愕して目覚めた。このときは別に発熱はしておらず、何というか、まったくの不意打ちだった。

恐らく大声をあげたのだと思う。気がついたときには、私の顔を不安そうにのぞきこむ母親の横で、ピアノの長椅子に座って震えていた。寝室から連れてこられたのだろうが、まったく記憶がない。
このときの震えは、身震いなどという生やさしいものではなく、体が跳ね上がりそうなほどで、頭が、腕が、両足が、全身が絶え間なくガタガタと振動していた。目は開いているが、周囲のものにまったく焦点が合わないのだ。頭上の白熱電球がふだんの半分ほどの明るさに感じられ、キイキイと嫌な音がどこかから聞こえてくる。ネジのゆるんだ長椅子がきしむ音だった。
 
しばらくすると、震えは次第に収まってきた。もう大丈夫だから、と母親に告げ、私は一人で部屋に残った。

この夢は一体何なのだろう? 物心つくまえに、どこかで目にした場所なのだろうか? ようやく覚醒してきた頭で、私はぼんやりと考え、机の上にあった紙切れに急いで印象を書きとめた。4Bの鉛筆で殴り書きしたこのときの紙片は、その後長い間机の引き出しに入っていたのでよく覚えている。こんな内容だ。




いえ 家 家(古い)    工場いきどまり 窓がない  
あかれんが あかい     赤い
 
モーターうなる音      くさり?  おばあさん
 

電線   家家      くらい  こわい 

こわい

 
 

7・8年後、大学時代のこと。
山陰地方を旅行していた私は、帰路に同行の友人と別れて、一人で京都に立ち寄った。
 
まだ空也像が大雑把に廊下に置かれていた頃の六波羅蜜寺と、六道珍皇寺を見物したあとで、河原町の駅へ戻る道が分からなくなり、迷路のような路地に迷いこんでしまった。どれくらい歩いただろう。日没が迫り、曇り空が次第に薄暗くなってきた。灯りが点りはじめた街灯の下を、うつむき加減に歩いていた私は、ふと顔をあげて目の前の風景に足をとめた。

 
 
 
 
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あ。

ここだ。

 


私はその場にしゃがみこんだ。いわゆるデジャヴというものが、視覚と脳内の記憶が混乱したものだということを何かの本で読んでいたので、べつに恐ろしかったり、ことさら神秘的な何かを感じたわけではなかった。ただ、あまりにも例の夢の風景そのものだったので、かなり動揺したのだった。そして地名や建物を確認することなく、足早にその場を立ち去った。

以後長い間、この場所はあの夢と同じように、私にとって幻の街となっていた。この街角を再訪したのは、20年近くたってからである。
 
 
次回に続きます。
 
 

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2009/04/17

勝利の女神


東博に阿修羅展を見に行きたいと書きましたが、今回は会場で面白いものを売っていたようですね。

 
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阿修羅像(全長12cm)

 
東博HPより。フィギュア界の雄、海洋堂の製作。大人気で品切れになり、再生産分も早々に予約が一杯になったようです。

こういうのを見ると、ちょっと欲しくなってしまうんだけど、これ、飽きたときに片付けるのに往生しそうだ。腕ははずれるんだろうか。そもそもわが家は、本棚も机の上も、こういった小物を置くスペースがまったくないのだが。

20代の頃に勤めていた学習塾の戸棚には、大仏や弥勒菩薩の置き物がたくさん並んでいた。修学旅行に行った中3の子たちの土産物だ。プラスチックに金メッキがしてあるような、まあ何というか、しょうもない一品である。
あれは勢いで買ってしまったものの、家の人に「こんなものどうすんの!」 と怒られたんだろうな。処置に困って、みんな塾にもってくるのである。安手の大仏像がクローンのように増殖し、なかなか壮観であった。

 


さて、彫像モノのミニチュアで、以前から欲しいと思っているのがこれ。
 
 
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サモトラケのニケ
(全長15cm)
 
 
高知県立美術館HPより。フランス国公立美術館連合のミュージアムグッズで、ルーブル美術館認可のものらしい。お値段は30000円ほど。

 
実は、ニケだけは本当に欲しいんですよ。昔から。でもやはり置く場所がねえ。

 
いろいろ調べてたら、こんなのがありました。古代文明シリーズだって。いや全然知らなかった。食玩恐るべし。
 
http://www.butsuyoku.net/shokugan/collect/index.html
http://www.butsuyoku.net/shokugan/collect2/index.html
http://www.butsuyoku.net/shokugan/collect3/index.html

なんという無駄に豪華なラインナップ。ニケはシークレットで、頭部と腕を再現したものも出ていたんですね。

 
このシリーズのニケ様は人気があるのか、ヤフオクでもほとんど出品されていないようです。シークレットのほうはときどき見かけるけれど、案の定こっちは人気がない。まあそうだよね。シークレットが全然売れないという、珍しいことになってます。

 
オークションをさらに検索してみたら、ニケのネックレスが出品されているのを発見しました。全長2cm。ハンドメイドだそうで、とっても安い。車のキーにつけようと思いまして、購入いたしました。
 
 
Pict2361
 
 
どうでしょう。なかなか可愛らしくて、なんだかチェーンを切るのがもったいなくなってしまった。かといってネックレスをする趣味はないし、どうしたもんかな。
 
 

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2009/04/13

八部衆と十大弟子来たる

 
興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」  
東京国立博物館平成館で開催中
 
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=6113

なかなか豪快な出開帳である。見に行きたいが、平日でも大混雑らしい。

秘仏のお出ましや出張は、江戸時代からさかんであった。寺も街も地場のヤクザも大もうけできるお祭り騒ぎだったのである。独立行政法人になった東博もなかなか苦労しているんだろう。乾坤一擲の大勝負に出ましたな。

どうせなら、表慶館と本館の前にずらりと屋台でも並べればいいのにね。こんな機会は少ないんだから、歌あり踊りありにして、出開帳という一大イベント自体を再現したほうが面白いんじゃないかな。
 

前から思っているのだが、ナショナルミュージアムなんだから、常設展だけはタダにすべきだと思うがなあ、国立博物館は。

文化国家として恥ずかしいよ。


 

 

 

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2009/04/06

複製品を前にして考えたこと その2

 
大学の史学科を出て、20年近く中学・高校で歴史を教えてきた。

建物好きの自分がつくづく歴史屋だと実感したのは、10年ほど前だったか、いわゆる「廃墟」 がブームとなったときだ。国内の打ち捨てられた工場や人家の写真集が書店に並ぶようになり、一部で人気を集めたのである。
実質的には廃墟写真のブームだったのだが、私はあまり心を動かされなかった。それらの本のほとんどは、遺物の歴史的背景や、そこで働き、暮らした人間に存在に対して無頓着だったからだ。お化け屋敷をのぞきこむ感覚で紹介している本も目立ち、これでいいのかなと考えざるを得なかった。
 
長崎県に端島という人工島がある。軍艦島と通称されるこの炭鉱の島は、廃墟ファンには人気のスポットのようだ。
(世界遺産にという声もあるが、重要な建築物の多くはすでに失われている)
 
私は端島の荒廃したコンクリートの建築物を、階調や色彩をいじり倒してドラマティックに仕立てた写真で見るより、居住区をつなぐ回廊で遊ぶ子供たちの古い写真を見つけだして眺めるほうが好きだ。そして、そこにつくられた最大の建物が、1945年8月15日、終戦の日をはさんで突貫工事で建設されたというエピソードに心震える。国策である石炭生産施設の建設は、敗戦とは無関係に進められたのだ。遺物に残る長い歴史は、廃墟写真だけでは決して感じ取ることはできない。

歴史への敬意は、絶対に必要だと思うのである。

丸の内の主である三菱地所が、1号館を復元するというニュースを最初に耳にしたとき、脱力感に近いものを感じた。日本の近代建築や建築史に興味のある人ならご存知だと思うが、オリジナルはJ・コンドル設計の傑作で、残っていれば明らかに重要文化財になっていた歴史的建築だったのである。1960年代の後半、三菱地所は保存を求める声に耳をまったく耳を貸さず、反対運動が盛り上がるのを恐れてこの建物をあっという間に解体した。
いかにも高度経済成長期らしい話であり、当時としてはとくに珍しい出来事ではなかった。ただ、今回復元するにあたり、この建物を美術館として、丸の内の文化の発信地として活用するというアナウンスに、どうにも抵抗を感じるのである。
さらにいうと、復元された三菱1号館が建つのは元の場所ではない。この複製品をつくるために、大名小路に唯一残っていた戦前建築、八重洲ビルを取り壊しているのだ。八重洲ビルヂングは小ぶりな尖塔をもつ、素敵なオフィスビルだった。中央郵便局の取り壊しを待たず、戦前の丸の内名物・一丁ニューヨークの面影を残す建築はすべて消えてしまった。

完成間近の新三菱1号館は、建物の一部に保管してあったオリジナルの部材を使っているという。実際よくできていて、三菱が「本気」 で取り組んでいることが一目で分かった。どうせテーマパークの建物のように嘘くさい仕上がりになるのだろうと思っていたので、これには本当に感心した。
 
感心はするけれど、どうしても感動することができないのだ。

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この建物も、結局は丸の内のレトロな新名所として認知されるのだろうね。見上げる日本人の歴史観を問う、踏み絵のような不思議な建築です。ぜひ一度ご覧になることをお勧めします。
 
 
 
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一部が「保存」された八重洲ビルヂング。
 
 

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