2013/05/27

小平市というところは

 
政治学者にして「鉄学者」の原武史さんが、小平市の住民投票の結果について、

 
「小平市民」という意識より「西武沿線住民」という意識のほうが強ければ、花小金井、大沼町など、今回問題となった沿道に遠い町ほど投票率は低くなるはずだと思う。「沿線」と「沿道」の違いは大きい。

 
とつぶやいている。原さんの諸作を楽しんできたので、なるほどなあとは思うものの、市内東南部に住む人間としては、それほど西武沿線民という実感もないんだよね。花小金井駅を利用することが多いものの、JRの国分寺駅や武蔵小金井駅へのバスの便もいいので。

小平ってもともと水のない不毛の土地で、玉川上水完成後の開拓地だから、ふつうの町の発展のしかたと異なる点もあるのですね。また市の東西ではなりたちがずいぶん異なっています。

 
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開拓農民の地割図。

 
お百姓さんの土地がみんな東西に長いです。今でもこの名残はありまして、畑はみんなこの短冊形だし、地主が売って住宅地になったところもたいてい縦長です。近年の大規模マンションも南北に長いものが多い。東向きや西向きの部屋になるので、セールス的には弱点なんだろうなあ。周辺の市もそうですが、ゴルフの打ちっぱなしが多いのも興味深いところ。南北に長い緑のネットをあちこちで見るけれど、あれは地主が直接経営してるんだろうね。

この地割り図で紹介されているのは、江戸初期に開発された小平最古の開拓集落・小川村で、これが現在の小平市西部にあたります。ちなみに西武国分寺線は小川村の中心部を走る鉄道路線で、明治28年(1895)に開通している。開業当初は川越鉄道といい、実は西武新宿線や池袋線より全然歴史が古かったりする。

のちに完成する多摩湖線から東側は新開地で、江戸中期の開発された新田集落が分布します。

近年、花小金井駅周辺の変貌が激しいですが、実は江戸時代から小平の東部はニューカマーの街だったんだよね。
 
同じ新田集落でも、農民が直接開拓をした小川村と異なり、新田の配置もバラバラ。町人請負新田などさまざまな形の開発が行われ、投機的な土地売買を行うものもあらわれて、ちょっとした土地バブル状態だったようだ。無茶苦茶に張り巡らされた玉川上水の分水(今もほとんど残っている!)も、権利関係の複雑さを物語っているようで面白いのである。

結局、市内を走る縦軸の西武線2本、なかでも多摩湖線を境に、小平って東西に分かれてるんですよね。鉄道線路によるボーダー感って大きいから、近代に入っても発展の仕方が異なったのだろうと思う。つい最近まで街道沿いの屋敷森が多く残っていたのが市内の西部。戦前に広大な陸軍経理学校がおかれたり、あちこちに都営住宅が建設されたり、高度成長期には人口増加で東京一生徒数の多い小学校が生まれたり、早くから変化が絶えなかったのが小平東部。

今回の雑木林問題は、開拓のパイオニアの地たる、小平西部の出来事なのでした。原さんもおっしゃっていたけど、町別の投票率を知りたいなあ。


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2013/05/17

小平市で住民投票

報道でご存知の方も多いかと思います。


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わたくしは実に40年、この街に住んでおります。実家と一人暮らしをしていたアパート、結婚後に借りた潜水艦の居住区のような集合住宅、そして現在の住まいも、きっちり半径500mにおさまってしまいます。
 
といっても、地域のコミュニティに参加したり興味をもっているわけではなく、知人友人もほとんどおりません。近所のスナックにボトルを入れて、仲間とカラオケでも楽しんでる地元愛のヤンキーパパのほうが、よっぽど街に貢献しているんだよね。とっとと家を出て、何やらワールドワイドな生き方をしている妹と対照的、実にコンパクトな人生であります。
 

そういえば、妹とはよく多摩地区ダメ人間論というので盛り上がりました。高度成長期に東京西郊に生まれ育ち、成績優秀でもなく、完全にドロップアウトする度胸もなく(なにせ実家があるから世を漂流する努力も覚悟も必要もない)、とくに理由もないのにダラダラと住み続けて、音楽やったりサブカル齧ってエラそうなことを語っている人間は、地方出身者にくらべてどうにも覚悟が足りないと。 
 

NHKの『あまちゃん』で、東京に憧れる女の子が登場しているけれど、地方から上京してきた方々とはぜんぜん気合いの入りが違うのである。宝島(懐かしい)読んでライブや店をチェックしてもたいして足を運ぶわけでもなし、若者の街にもどっぷり漬かることなく覗き見してるだけで充分、「隠れ家的な」とか「中央線文化」なんて言われると、なんだかとっても気恥ずかしくなる。
 
物書き稼業を始めて、多摩ダメ人間としてのウィークポイントを痛感するのだが、なかでも諦めの早さ、競争心のなさは致命的である。良寛さんじゃあるまいし、冗談でも「ホホ、負けるが勝ちじゃ」などと呟いてはいけないのである。

ただまあよかった点もありまして、正直なところ、多摩の中学生や高校生が20数年間、そこそこ興味をもって私の授業を聞いてくれたのは、同じような匂いを感じてくれていたのかもしれないんだよね。自分が学生のときもそうだったが、「面白い先生なんだけどなんか違うよね」と感じたのは、東京以外の出身者が多かったのだ。


さて、冒頭の話題ですが。

市のホールで行われた中沢新一と國分功一郎、いとうせいこうのシンポジウムを見に行きました。國分さんは件の雑木林の近くにお住まいらしい。しかし、いとうせいこうって人は全然変わらないね。
 
楽しかったし、いろいろ考えさせられた。何十年かかっても、道路って必ずできるんですよね。もう気味が悪いくらい。いつのまにか家がなくなって、行政の告知板が立つ更地になり、見慣れた風景がなくなっていく。
 

鼎談のなかでは、現地に住んでいて反対運動をやってきたというお年寄りのエピソードが面白かった。話をする行政側の相手は、いつでも若い人間なのだという。こっちはどんどん老いていくのに、半世紀にわたって、次から次へと替わってゆく若い担当者を相手にし続けているんだと。なんという恐ろしくも過酷な戦いであろうか。


民主主義の原点としての住民参加は納得するし、この一件で失われる緑を惜しむ方々がいることもわかる。しかし、私はこういった道ができるより、こちらのほうがしみじみと悲しい。

 
 
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これはわが家の近所。グーグルマップの写真で、数年前の姿。

右手の木々は牧場でした。現在はベビー洋品店とその駐車場に。左手はコンビニと駐車場。奥にはマンション。この写真に写っている木々はほぼ全滅。

最近、ストリートビューの画像を保存することが多くなってきた。代替わりで土地を売る地主さんが急増しているのか、雑木林が次々とマンションに、チェーンの外食店に変貌しているのである。小金井に長く住んでいる作家の黒井千次氏が、エッセイで同じようなことを書いていた。雑木林が失われ、近所の古い家の庭先の柿の木がなくなっても、心が痛むけれど何もできない、と。

私は日本各地の古い建築や町並みを眺め、記録してきた。これは「消えていくものを黙って見ている」ことの繰り返しだった。バブルのときの東京の大変貌も同じ。傍観者の自分は諦念。ただもう諦念。


何と言ったらいいかなあ、緑を残して、と行政相手に掛け合える人々は幸せだと思うのである。地主に文句を言えないし、言ったところで、彼らにもさまざま理由はあるわけでね。
ウグイスの鳴いていた屋敷森が消え、あとに書割りのような建売り住宅が並び、トンチキな住民が電飾屋敷の玄関先でパーティーをはじめても、こちらは黙って耐えるしかないのである。こういう人たちに限って、田舎に帰ると豊かな自然を満喫していたりするのだ。

地元で友人ができるなら、この郊外生活者の悲哀をしみじみ語り合える人がいいのだが。ほんとにそう思います。
 
 


 


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2011/01/14

新春お伊勢まいり その2

 
「きのう菅首相が来たんですよね」 

午前4時半、宇治山田駅で乗ったタクシーの運転手に私は話しかけた。

「そうなんですよ」 ドライバー氏は力なく笑った。「今年だけでしょうけど」

「ここ数年、来る総理が毎年違うんですよ。いいんですかねえ」


 
満天の星空の下、伊勢神宮の内宮に行ってきたのです。
 
 
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いや、実に面白かった。


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当方とくに信心深いというわけではなく、江戸時代の観光史を調べていて、実はそっちのほうからの興味で訪問してみたのでした。おかげ参りが流行した江戸末期の参詣者は年間50万人を越える年もあったそうで、荘厳に見える宇治橋から先の境内にも、江戸時代までは茶屋が軒を連ねていたといいます。このあたりが神域として大きく変化したのは、やはり明治以後のことです。

 
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こう言っては実も蓋もないんですが、「神々しさ」 というものが実に上手に演出されている空間でありました。大したものです。
 
 
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五十鈴川のほとりで。川底は御賽銭で一杯である。
江戸時代はザルをもった作男が回収していたそうだ。

 
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お伊勢様、昨今流行しているパワースポットの代表格なんだそうですね。

スピリチュアル方面に興味のある方々に、神社の人気が高いのもわかります。だってさ、受容するだけで何も考えこまなくていいんだもの。
 
仏教は徹頭徹尾理屈だから、矛盾や破綻はあっても、そこは説得力を保とうと何とか努力している。それに対して神道ってのは、人間のもつ畏怖の念を巧妙にシステム化しているけど、実は合理的であることを最初から放棄しているんだよね。SFとファンタジィの違いみたいなもんです。
 
日本人はファンタジィ大好きだから。


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夜が明けてきました。
鳥居と宇治橋の向こうに太陽が出ます。

この写真を撮っている私の後ろでは、数十人の人々がデジカメや携帯を構えて待っていました。
 
寒いから私はいいや。
宿に帰って風呂にでも入るかな。
 

 
 
 
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2011/01/05

初春お伊勢まいり その1

 
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

 
JRの出している「青春18きっぷ」 というのを、ときどき取材で利用しております。新年早々、1日分残ったこの切符を入手したので、伊勢神宮にゆくことにしました。

ご存知の方も多いと思うが、青春18きっぷというのは、各駅停車の列車しか乗れない、えらく安い回数券みたいな切符である。春・夏・冬と、学生の休みのシーズンに販売される。初めてこれを使ったのは、発売開始直後の高2の夏だった。もう30年も前であり、ずいぶんと息の長い商品である。名前に反して年齢制限はない。グループでも使用できるので、近年は中高年の利用者も多いようだ。 
 
むかしはよく列車を乗り継いで長距離の旅行をした。数年前、久しぶりにこの切符で関西旅行にチャレンジしたところ、心身ともにすっかり参ってしまい(注)、途中で何度も新幹線に乗ることになって、かえって旅費が高くついた。
 

注… 地方の列車はたいてい短いんですよ。たいてい1両とか2両なんです。何回乗り換えても東京からのおんなじ顔ぶれが回りにいて、座席取りを繰り広げているのである。
昼間から満員電車並みの混雑のときもあり、その中で立って駅弁を食ってる男がいたのには驚愕した。ドアの横にはファストフードのポテトを車座になって広げているグループもいやがって、匂うわ苛立つわ、もういたたまれなくなって全然知らない駅で列車を降り、1時間半ホームで待って次の列車に乗ったら、そこも同じような人々で満員だったので絶望した。あれでは地元の人は迷惑だろうよ。もちろんまっとうな客も多いですが。
 
むかしはガラガラの10両編成の鈍行とかが日本中で走っていて、時間はかかるがのんびり旅ができたのである。そもそもこの切符、列車を空で走らせても何だし、というコンセプトで売り出された商品で、これは当時としてはなかなかいいアイデアだったんだよね。「列車の長さを短くすればいいじゃん」 というごく当然のことが、労使対立の中でできなかったわけですから。なにせ国鉄の頃は「合理化反対」 だったんだもんね。しかしまあ、なんという力強く直截なメッセージでしょう。

 
 
さてさて、昨日の朝4時、地元の駅から始発電車に乗るためにタクシーを呼び(タクシー代が1日分の18きっぷと同じだ)、中央本線経由で名古屋へ向かいました。東海道は前述したとおり嫌な思い出があるので、長野を抜けてゆくのもよいかな、と。

たしかに列車は空いておりました。ただ、予期しなかったことがひとつ。非常に寒いのである。このところ東京は暖かかったのですっかり油断していた。各駅停車はドアがしょっちゅう開くもんだから、暖房がまるっきり効かないのであった。
数回乗り換えて、4時間我慢したところでギブアップ。塩尻から名古屋行きの特急に乗車しました。まあ、ハナっから予想はしてたけどね。

 
というわけで、ただいま三重県伊勢市のビジネスホテルにおります。午前4時になったらタクシーを呼んで、内宮へ向かう予定。

 
むかしから「伊勢参宮 大神宮へも 一寸寄り」 などと申しまして、参拝前後の遊山が、庶民にとってはメインだったりします。外宮・内宮の間は、江戸時代は遊里だったといいますが、現在はふつうの住宅地。とりあえず伊勢観光の王道、二見浦に行ってまいりました。(写真はクリックすると拡大します)

 
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あれ、海がえらく荒れている。
 
 
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観光写真ではたいてい穏やかなんだが。
新春から激しく波風が立つ夫婦岩。
(なんかヤダ)
 
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うわ。


 
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ここの旅館街は一見の価値があります。
 
 
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しかし寒いなあ。

 
 
 
正統派観光地ファンとして、妻子にトラディショナルな観光土産を購入しました。
 
 
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妻へ。二見興玉神社では蛙が神の使いだそうで。
(あちこちの雑貨屋で見る品である。まああとで赤福も買うし)

 
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息子へ。
(ケース割れてるぞ)

 
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自分へ。
(あれ? 温度計つきのペンたてを買った筈だったのに。箱を間違えたかな)

 
 
店先で例によって、「昔は日めくりの置物がありましたよねー」 という話で、店の婆さん(推定140歳)と盛り上がる。「ピンバッジはもうないですよね」 と尋ねたら、がさごそと棚の奥から探し出してくれました。


「あったよ。穴あけるやつじゃないけど(針留めのタイプだった)いいかしらね?」

「もちろんです! わざわざありがとうございます。おいくらでしょう?」

「あげる」

「えっ」

「あげるわよ。袋破けてるし」


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二見浦の婆さん万歳! 長生きしてね。
 
 
 

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2010/10/13

夜汽車に乗って

 
 
息子を誘って、食堂へ一杯呑みに出かけた。

 
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窓の外は郡山あたり。
 
 


 
 
 

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2010/09/19

駅員さんありがとう


まだ暑さが残る9月のある日のこと。

 
べんべんべんべんと、芝刈り機のような音をたてるべスパに乗って、2サイクルエンジンの白煙をあげながら近所の小さな駅へ行きました。みどりの窓口前の小さなテーブルで、申込書に記入します。

「あのう、すいませんけど」

「はいはい」

「10時になったらですね、この席を調べてもらえませんか?」

申込用紙を見る駅員さんの眉間に、皺が浮かびます。

「うーん、ははは。難しいなあ。やってみますね」

「お願いします」

 
べんべらべんべんと近所のコーヒーショップへ。駐車場で遊んでいた子供たちに、ぐぁ、ぐぁ、と警笛を鳴らして笑わせてから店内へ入り、ひと休み。 

9時55分。再び駅へと向かいました。目の前で待っているのも嫌だから、駅前の売店の横からこっそり窓口をのぞきこみました。まるで父子の特訓を見守る星飛雄馬のお姉さんのようであります。

 
で、券を頼んだ駅員さんが、端末の前に座っていたんですけどね。

なんと、ほかの駅員さんが全員まわりに集まっているじゃあないですか。時刻表や、約款みたいな冊子をめくりながら、難しい顔でモニタをのぞき込んでる人もいます。ありゃりゃ、何だか大げさなことになっちゃってる。

10時になりました。時計をにらんでいた端末前の駅員さんの右手が、ポンとキーを叩きます。モニタに顔を近づける駅員の皆さん。

全員が、おう、というような表情を見せました。

 
他のお客さんがいなくて助かった。「取れました。取れましたよ」 と言う駅員さんに礼をいい、短パンのポケットにチケットを入れて、念入りにフラップのぼたんを締めて、上から2度3度、ぽんぽんと叩いて確認してから、べんべんべんと家をめざしました。
  
 

 
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取材がてら、親子3人で乗ってきます。この列車ももう長くないからね。


 
 

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2010/07/29

横浜新港埠頭

 
一昨日、福島の小名浜港で日本郵船の客船・飛鳥2を見物した話を書いたら、大学時代の友人が、新港埠頭に面白い船が寄航していることを教えてくれました。一般公開最終日ということで、昨日、妻子と母を連れて見に行きましたよ。
 
私の母親は若い頃、横浜港で内外の船を見まくってたそうで、声をかけたら「行く行く」 という返事。何でも10代のころにイギリスの巡洋艦にも乗ってるらしい。
 
 
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サグレス(N.R.P. SAGRES)

 
ポルトガル海軍の練習帆船です。初来日。
(写真はすべてクリックすると拡大します)
 
 
 
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帆船ってのは、どう撮っても絵になりますね。


実はこの船、第二次大戦前の1937年につくられた軍艦である。元はドイツ海軍の練習船。
 
 
 
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ハンブルグのブローム・ウント・フォス社は大戦後期、奇怪なスタイルの軍用機を次々と試作しては軍部に却下されていたことで、飛行機ファンにはよく知られている。もともとは造船メーカーで、ドイツ海軍の誇った巨大戦艦・ビスマルクもこの会社のフネである。
この帆船は戦後、アメリカに接収されたのちブラジルへ渡り、1960年代になってポルトガルが購入したもの。サグレスという船名は、このときに老朽化した先代の練習帆船の名を受け継いだそうな。

 
 
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帆に掲げたマルティスクロス(マルタ十字)は、大航海時代のポルトガルの船印。
 
 
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「ポルトガルのサグレスって、沢木耕太郎の深夜特急に出てきたよね」 妻が言った。

「そうだっけ?」

「大陸の端の岬の町」

すっかり忘れていた。帰宅後に読み直したところ、旅の終盤に登場しておりました。サグレスはユーラシア大陸の西端の地である。
 
 
 
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船首像は個人的には女神のものが好きだが、これは別格。
ポルトガルの王子・ヘンリー像(Prince Henry the Navigator)なのです。

 
高校世界史風に、エンリケ航海王子といえば記憶している人も多いかもしれない。1400年代の初頭、サグレスの地に航海学校を設立した人で、これは15世紀末、バルトロメウ(バーソロミュー)・ディアスの喜望峰到達や、バスコ・ダ・ガマのインド航路開拓を成功させるきっかけとなった。ポルトガルの大航海時代を象徴する歴史的人物である。

 
パンフレットを貰ったが、全長は89.5m、メインマストの高さは45.5mとある。乗組員は139人で、女性もいました。60人ほどが練習生だそうだ。


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います。
いません。

 
午前中にわれわれが乗船したときは、甲板にいたほとんどが若い水兵で、サングラスをかけたガタイのいいベテラン風の乗組員たちが、次々と下船していくところだった。横浜最終日だし、フネを若手にまかせて街へ繰り出したんだろうかね。すれ違ったとき妻が、「ものすごく香水をつけてる」 と苦笑しておりました。

 
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この扉の向こうで、居残りの乗組員がぎゅうぎゅう詰めで冷たいものを飲んでいた。扉が開いたら、凍えるような冷風が流れ出してきて驚いた。


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階段で手助けしてくれた格好のいいお兄さん。

 
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せっかく遠くから来てサービスしてくれてるんだから、
目ぐらい合わせなさいよ。


 
今回の来航は、日本・ポルトガルの修好通商条約締結150周年記念だという。パンフを見ると、MISSON OF 2010とあり、サンディエゴへの練習航海を兼ねて、チリ建国200周年のフェスティバル参加、上海万博のプレゼンスなどが並ぶ。実に1年に及ぶ船旅で、これはポルトガルのアジア到着500周年記念の航海でもあるらしい。

「アジア到着500年」というのが気になったので、世界史図表なんぞで調べてみたら、インドのゴアを占領したのが1510年なのですね。はあ。

 
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リスボン繁栄の礎を築いた植民地・ゴアが解放されたのは1961年。奇しくも、この美しい帆船がポルトガルの軍艦となった年でした。

 
7月29日、午前10時抜錨。次の寄港先は鉄砲伝来の地、種子島です。
 
 
 

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2010/07/27

福島浜通り

 
海へ遊びにいきました。

 
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3歳の息子の海デビューだったんですが、波を怖がっちゃって全然駄目。ひたすら砂遊びとなりました。
 
 
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岩沢海水浴場といいます。綺麗でした。
赤旗の向こうは波が高いのか、サーファー用です。
 
いい砂浜ですが、この海水浴場、南側はこうなっております。
 
 
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東京電力広野火力発電所。
 
 
なお、浜通りには福島第一・第二原子力発電所もございます。今回わが家が宿泊した宿も含め、このあたりは妙に公共施設が整っているような気がしますが、あー、まあいいや(注)

 
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注… 以前、取材で下北半島を訪問したことがあるが、「ようこそ六ヶ所村へ!」という看板の直後から、ボロボロのコンクリート道がいきなり高規格片側2車線道路になった。あれには驚いた。
 
 
 
往路に、「アクアマリンふくしま」 という水族館に立寄りました。そこにあったポスターに、2日後に小名浜港に客船が寄港するというニュースが。こりゃ帰りに見物しなければ、というわけで、

 
 
 
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飛鳥2

 
排水量50,142t、全長は240.8m。
 
どうやら東北クルーズの帰りらしい。先代の飛鳥はよく横浜港で見たものですが、2代目は初めてです。いやあ、でかいや。向こう側にちょっと見えるガラス張りの水族館より大きいのがお分かりでしょうか。戦艦長門より大きいぞ。
 
 
近年、「メガシップ」とよばれる、7万~10万tクラスの超大型客船が就航している。どれも船体の上にマンションが乗っているような構造で、正直言って船としての美しさには欠けるものが多い。
この船も同様のスタイルなんだけど、近くで見ると、けっこう前甲板が長いのね。意外。
 
 
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ちょっとした観光船並みのテンダーボート。

 
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後から。テラスは等級別なのかな。

 
この船は乗客が800~900人なのに対し、乗務員が400名だそうです。

 
昔、東京から釧路にゆく『ブルーゼファー』(注2)という近海郵船のフェリーに乗ったことがあります。2泊3日の航路で、「クルーズフェリー」と標榜しておりました。定員は700名くらいだったかな。
 
注2… ちなみにこれは2番船で、1番船は『サブリナ』といいます。なんでも社長さんがヘプバーンのファンだったそうで。
 
 
船内の手すりに干した手ぬぐいが並んでるとか、ロビーで楽しげにカップ麺をすする家族がいるとか、どこがクルーズやねんという感じでしたが、船自体はバブルの頃に気合をいれて造ったもので、内装は趣味もよく、美しいものでした。
 
 
でも、ホントの客船に絶対かなわないのは、やはり乗員数なのでした。このフェリーの乗客サービス員は3~4人でしたもんね。乗船のときにきっぷをチェックしてた人がコンコースの売店でおみやげを売り、夜にはハッピ着て船尾でとうもろこし焼いてたもんなあ。上甲板から船尾までまさに神出鬼没で、似た顔をした人が何人もいるのかと思いました。
 
 
飛鳥2のお客さんはやはりお年寄りが多く、外国人も目立ちました。客船寄航の港祭りっていいもんですね。

 
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2010/05/31

吉祥寺の思い出 その2

 
昨日に続いて、吉祥寺の話をもう少し。今はなき店や、思い出深いものを紹介します。ご記憶のかたもいらっしゃるのでは。

 
DAC吉祥寺

伊勢丹の北側にあった第一家庭電器の店。オーディオ関係が充実していた。

あるとき、私の父はこの店で「間違って」、1ヶ1万円近くするレコードプレーヤーの針を買ってしまい、おまけにこれは低出力のMCカートリッジだったので昇圧アンプが必要で、「困ったので」、これも買ってしまい、どさくさにまぎれてなぜかプリメインアンプまで新調し、母にえらく怒られていた。子供心に、あれは絶対確信犯だと思った。
 
最後にこの店に入ったのは90年代の半ば、父がオーディオシステムを入れ換えたときである。さまざまなメーカーのアンプやチューナー、プレーヤーなどを組み合わせて買う客はもう少なくなっていたらしく、中年の店員氏が妙に張り切って、テスターやらグラフの束やらを持ってきて意気込んで説明していたのがおかしかった。
第一家電はつぶれ、これらの機器は父の形見となって、現在も実家で母親が愛用している。

 
王様のアイデア

ロンロンの中にあったユニーク商品の店。たしか東京駅や、新宿の駅ビルにも店舗がありました。
 
品物の多くは、ライトのつくボールペンだとか(これ、中1のときに買った。単三電池を軸に入れるので妙に太い)、コインを入れると人形がキスをする貯金箱とか、ものすごく小さくて、ものすごく使いづらそうなトラベル用麻雀牌だとか、ジッポライターに見えて、フタを開けるとマッチ棒が入ってるとか、その昔、少年雑誌の裏表紙に出ていた『ジョークショップ』や『マノク商事』 の広告にあるような、しょうもなくも楽しげな一品が多かった。末期はパーティーグッズのような商品が増え、店頭を眺めていても面白くなくなってしまいました。
 
ここで売っていた品で、今でも欲しいと思うものがある。長さ40cmくらいの直方体のガラスケースの中に、ブルーに着色されたオイルが入っていて、左右に傾けると液体が波のようにゆっくりと動くオブジェである。ケースを動かす電動の台座もあって、結構お高い商品だったのか、いつもショーウィンドウの上のほうに鎮座していた。
藤子不二雄の怪作『魔太郎がくる!』 に、この商品をテーマにした一編があったのを記憶している。おそらく藤子先生、買ってたんでしょうね。

 
ロンロンのプレイランド

駅ビル・ロンロンの西端に設けられたゲームコーナー。夕食を終え、駅に戻る前に家族で必ず立ち寄った。
 
インベーダーゲーム登場前のアーケードゲームは、ほとんどが20円か30円だったと思う。親から100円玉をもらい、画面上を左右に動く鮫を撃つゲームやら(当たるとピピピピ、と悲しげな音がして、鮫が血まみれでのたうちまわる画面に切り替わる。鮫というより錦鯉みたいな姿だった)、操縦桿を動かして三機編隊の影絵のような飛行機を打ち落とすゲームやらを楽しんだ。
妹は恵比寿様の顔がパネルに飾られた、スマートボールもどきをのんびりと楽しんでいたが、彼女はなかなか上手で、何度もリプレイを繰返していた。親も熱くなってゲームにチャレンジしており、私はその様子をいつも遠くからチェックしていた。そういうときは追加の小銭をねだりやすいのです。
正面と左右に、大砲やら戦車が描かれた切手大のパネルが並んでいて、大砲がコイルになったミニ戦車を操作して、ランプがついたパネルを大砲で押すとポイントとなるゲームが好きだったが、これが意外と難しかった。正面からぶつからないと、大砲がぐにゃ、と曲がって得点できず、車体を右往左往させているうちにタイムアップとなってしまうのだ。
 
当時のゲーム機は、たいてい制限時間が1分間で、アナログ時計のようなタイマーが操作盤についていた。リプレイも1分。だらだらと長くならないので、親としては、頃合いを見て引き上げるのには最適だったと思います。
大学に入って日本各地を旅行するようになったとき、地方都市のデパートの屋上で、これらのマシンとたびたび再会することになる。懐かしくてずいぶん遊んだものだ。

 
たまご屋

たばこ屋ではない。パルコに行く途中、家具の南海屋の手前に、裸電球を下げて木の台に藁を敷き詰め、大小の卵を並べて商っている店が、昭和の終わり頃まであったのだ。あれは凄かった。そこだけ終戦直後のような雰囲気だった。昨今のレトロ仕立ての居酒屋なんぞ裸足で逃げ出しそうな気迫と充実の店構えだったが、いつのまにか消えてしまった。
 
実はこの店、何を隠そう、わたくしの父親の次兄の奥さんの姉の結婚相手の実家なのでした(限りなく他人)。


さてさて、考えてみると、むかしの吉祥寺の客は「新宿渋谷に出るのも面倒だし、上野や銀座・日本橋なんざもう論外」 という手合いが多かったと思いますね。うちの親もそうでしたが、区部から越してきて郊外生活にすっかり馴染んじゃった人とかね。「吉祥寺に行こう」 ではなく、「まあ家にいるのも何だから、吉祥寺にでも行くかね」 という感じ。本当の繁華街とは違う、微妙な味わいがありました。

駅周辺の改造工事が進んでいるようですが、あんまり頑張って町づくりをすすめると、再開発した地方都市の駅前みたいになっちゃいそうなんだよね。便利だろうけど、それもあんまり面白いとは思えないなあ。
 
 

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2009/02/16

いてててて


祝日に取材で静岡に行ってきました。

早朝からの撮影のため、久しぶりに高速バスを予約した。23時50分発なので、夕食を終えて子供と風呂に入ってから東京駅へ。静岡着は午前5時前である。距離のわりには意外と時間がかかるなあと思ったら、途中で2時間ほど休憩タイムがあるんだね。
 
夜行バスで寝ると必ずノドを痛めて体調を崩すので、今回はのど飴やお茶のほかに、濡れマスクなるものを購入しました。マスクのガーゼにポケットが2つついていて、そこに濡れたフェルトを入れるしくみである。単純だが、これは実に効果がありました。ノドの弱い方はぜひお試しください。

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2階建てバスは、1階席がおすすめ。
天井は低いですが、荷物を置くスペースに余裕があります。

 
午前中に必要な撮影を終えたので、金谷まで足を伸ばして大井川を見に行った。かつて東海道最大の難所だった場所である。上流の発電所などで水を使いすぎ、以前来たときは悲しくなるほど水量が少なかったけれど、今回はわりと流れがありました。土手から見下ろしたところ、水深が1mほどありそう。

すっかり嬉しくなって、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬうー」 などと小唄を口ずさみながら土手の石組みを下っていたら、まんまと足を踏み外した。バランスを崩して、どどどどど、と勢いよく斜面をかけ降りる。

この季節に川面にダイビングは嫌だ。あわてて右手をみると、1mちょっと先の水面に、日本河川の名物・コンクリート護岸ブロックが顔を出しているではありませんか。仕方ないから、えいや、とジャンプする。
 
上半身はかろうじてブロックに届いた。両手をついて体を支えようとしたが、ああ何ということか、左手には先日買ったばかりの機材、ニコンD300(レンズ込み廿萬円超・カード引落しは来月4日) があったのだ。あわてて手首を返し、水流で削られて鋼のヤスリのようになったコンクリートに左手小指の付け根をずずず、とすりながら着地する。

い、痛えよ。

 
経験のある方はお分かりでしょう。この手のスリ傷の痛みは格別である。

私はブロックの上にひざまずき、おう、おうと呟きながら、傷ついた左手を青空へと伸ばした。目には涙がにじみ、まるで主に問いかける山上のイエスのような格好だ。もちろん誰も感動してくれる者などおらず、河原でススキを刈っていた爺さんが訝しげにこちらを見ているだけである。

右手のほうはどうやら打撲したようで、鈍痛がゆっくりと二の腕までひろがってきた。左腕を真っ赤に流れる僕の血潮。ぐぐぐ、痛い。手のひらを太陽に透かしてみるまでもない。
 
いつまでもうーうー言ってても仕方がないから、痛みをこらえて大井川のスナップを1枚、2枚。
 
 
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どうやらカメラは無事の模様である。
しかし全然楽しくないぞ。もう。

 
さて、帰宅後もまだ苦痛は続いております。そして面白いことに気がつきました。
 
手の甲、左手小指の付け根を傷つけたんですが、この部分って、日常生活で絶えずいろんなモノに触れたり、ぶつけたりしてるんですね。ふだんは気づかないだけで。
私は利き手が左なので、何をするのも必ず左手が先に出ます。マグカップや茶碗をテーブルに置くとき、上着を脱ぎ着するとき、ポケットからの手の出し入れのとき、引出しから物を出すとき、クルマのハンドルを握っているとき(膝頭に触れるのだ)など、しょっちゅう何かに触ってしまうんですよ。掃除機をかけるときや片付けのときにはあちこちにぶつけるし、そのたびにもうピリピリと痛むこと痛むこと。

皆様、つまらないケガには注意いたしましょう。
 

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