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2013/05/27

小平市というところは

 
政治学者にして「鉄学者」の原武史さんが、小平市の住民投票の結果について、

 
「小平市民」という意識より「西武沿線住民」という意識のほうが強ければ、花小金井、大沼町など、今回問題となった沿道に遠い町ほど投票率は低くなるはずだと思う。「沿線」と「沿道」の違いは大きい。

 
とつぶやいている。原さんの諸作を楽しんできたので、なるほどなあとは思うものの、市内東南部に住む人間としては、それほど西武沿線民という実感もないんだよね。花小金井駅を利用することが多いものの、JRの国分寺駅や武蔵小金井駅へのバスの便もいいので。

小平ってもともと水のない不毛の土地で、玉川上水完成後の開拓地だから、ふつうの町の発展のしかたと異なる点もあるのですね。また市の東西ではなりたちがずいぶん異なっています。

 
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開拓農民の地割図。

 
お百姓さんの土地がみんな東西に長いです。今でもこの名残はありまして、畑はみんなこの短冊形だし、地主が売って住宅地になったところもたいてい縦長です。近年の大規模マンションも南北に長いものが多い。東向きや西向きの部屋になるので、セールス的には弱点なんだろうなあ。周辺の市もそうですが、ゴルフの打ちっぱなしが多いのも興味深いところ。南北に長い緑のネットをあちこちで見るけれど、あれは地主が直接経営してるんだろうね。

この地割り図で紹介されているのは、江戸初期に開発された小平最古の開拓集落・小川村で、これが現在の小平市西部にあたります。ちなみに西武国分寺線は小川村の中心部を走る鉄道路線で、明治28年(1895)に開通している。開業当初は川越鉄道といい、実は西武新宿線や池袋線より全然歴史が古かったりする。

のちに完成する多摩湖線から東側は新開地で、江戸中期の開発された新田集落が分布します。

近年、花小金井駅周辺の変貌が激しいですが、実は江戸時代から小平の東部はニューカマーの街だったんだよね。
 
同じ新田集落でも、農民が直接開拓をした小川村と異なり、新田の配置もバラバラ。町人請負新田などさまざまな形の開発が行われ、投機的な土地売買を行うものもあらわれて、ちょっとした土地バブル状態だったようだ。無茶苦茶に張り巡らされた玉川上水の分水(今もほとんど残っている!)も、権利関係の複雑さを物語っているようで面白いのである。

結局、市内を走る縦軸の西武線2本、なかでも多摩湖線を境に、小平って東西に分かれてるんですよね。鉄道線路によるボーダー感って大きいから、近代に入っても発展の仕方が異なったのだろうと思う。つい最近まで街道沿いの屋敷森が多く残っていたのが市内の西部。戦前に広大な陸軍経理学校がおかれたり、あちこちに都営住宅が建設されたり、高度成長期には人口増加で東京一生徒数の多い小学校が生まれたり、早くから変化が絶えなかったのが小平東部。

今回の雑木林問題は、開拓のパイオニアの地たる、小平西部の出来事なのでした。原さんもおっしゃっていたけど、町別の投票率を知りたいなあ。


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2013/05/21

激安の殿堂に行ってきたの巻

 
仕事の帰りに、ウイスキーとシェービングフォームを買うために、武蔵境の玉川上水ぞいにある激安の殿堂に寄ってみました。

あの店、以前も何回か入ったことがあるんだけど、すべて深夜で客がほとんどいなかったんだ。夜遅いのに幼児を連れた夫婦がいたりして、なんだかなーと思ったりしたけど、さほど驚きはなかったの。

いやあ、今回は衝撃を受けましたね。

夕方に入店したら、店は満員。本当に満員で、立錐の余地もないくらいなんだよ。お客さまがすべてヤン、いや、ふだんお付き合いのない人ばかりでまず驚いた。あれだけ集まっているところを見たことなかったんだ。
 
酒売り場はものすごくごった返していたので購入を諦め、シェービングフォームを見に行ったらあなた、売り場の前に若い女性が7・8人しゃがみこんで、むだ毛そりやらへんなコロンやらを手にしてしゃがんでいるの。黙ってしゃがんでいるの。通路を通れない。
驚いたのは、彼女たちは移動するときも立ち上がらず、うんこ座りのまんまでのそのそ動くんだよね。だんご虫みたいだ。おまけに全員、背中とパンツとおしりのはじまりが見えているの。おいおい。

欲しいかみそりの刃を探したんだけど、商品の間にコンドームの袋が散乱してて(何でよ!) まずそれを片付けなければならない。このあいだの土曜日に、朝日新聞の人生相談で岡田斗司夫が答えてた「理解できない相手はインド人だと思いなさい」という至言を思い出すもどうもうまくいかず、いいかげん嫌気がさして店を出ると、自動ドアのおもてに入店したときに見たアベックがいて、この2人はゲバゲバ90分でハナ肇が演じるあっと驚くタメゴロー(検索してね)みたいな風体をしてて、へんな人たちだなあ、と思っていたのだが、いきなり女が男の頬を平手打ち。
 


驚いたねえ。女は何か喋ってるんだけど、何を言ってるのかまったく分らない。男の返答も意味不明。最初は日本語ではなくアジア諸国の言葉かな、と思ったんだけど、名詞も助詞も外国語ではなさそう。私は気づいたんだ、こいつらは地底人なんだよ。間違えて地上に出てきちゃったの。

とにかく刺戟的な経験でした。○ンキ○ーテ万歳。武蔵小金井の長崎屋が○ンキになるんだってね。もうどうでもいいや(笑)。
 
 

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2013/05/17

小平市で住民投票

報道でご存知の方も多いかと思います。


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わたくしは実に40年、この街に住んでおります。実家と一人暮らしをしていたアパート、結婚後に借りた潜水艦の居住区のような集合住宅、そして現在の住まいも、きっちり半径500mにおさまってしまいます。
 
といっても、地域のコミュニティに参加したり興味をもっているわけではなく、知人友人もほとんどおりません。近所のスナックにボトルを入れて、仲間とカラオケでも楽しんでる地元愛のヤンキーパパのほうが、よっぽど街に貢献しているんだよね。とっとと家を出て、何やらワールドワイドな生き方をしている妹と対照的、実にコンパクトな人生であります。
 

そういえば、妹とはよく多摩地区ダメ人間論というので盛り上がりました。高度成長期に東京西郊に生まれ育ち、成績優秀でもなく、完全にドロップアウトする度胸もなく(なにせ実家があるから世を漂流する努力も覚悟も必要もない)、とくに理由もないのにダラダラと住み続けて、音楽やったりサブカル齧ってエラそうなことを語っている人間は、地方出身者にくらべてどうにも覚悟が足りないと。 
 

NHKの『あまちゃん』で、東京に憧れる女の子が登場しているけれど、地方から上京してきた方々とはぜんぜん気合いの入りが違うのである。宝島(懐かしい)読んでライブや店をチェックしてもたいして足を運ぶわけでもなし、若者の街にもどっぷり漬かることなく覗き見してるだけで充分、「隠れ家的な」とか「中央線文化」なんて言われると、なんだかとっても気恥ずかしくなる。
 
物書き稼業を始めて、多摩ダメ人間としてのウィークポイントを痛感するのだが、なかでも諦めの早さ、競争心のなさは致命的である。良寛さんじゃあるまいし、冗談でも「ホホ、負けるが勝ちじゃ」などと呟いてはいけないのである。

ただまあよかった点もありまして、正直なところ、多摩の中学生や高校生が20数年間、そこそこ興味をもって私の授業を聞いてくれたのは、同じような匂いを感じてくれていたのかもしれないんだよね。自分が学生のときもそうだったが、「面白い先生なんだけどなんか違うよね」と感じたのは、東京以外の出身者が多かったのだ。


さて、冒頭の話題ですが。

市のホールで行われた中沢新一と國分功一郎、いとうせいこうのシンポジウムを見に行きました。國分さんは件の雑木林の近くにお住まいらしい。しかし、いとうせいこうって人は全然変わらないね。
 
楽しかったし、いろいろ考えさせられた。何十年かかっても、道路って必ずできるんですよね。もう気味が悪いくらい。いつのまにか家がなくなって、行政の告知板が立つ更地になり、見慣れた風景がなくなっていく。
 

鼎談のなかでは、現地に住んでいて反対運動をやってきたというお年寄りのエピソードが面白かった。話をする行政側の相手は、いつでも若い人間なのだという。こっちはどんどん老いていくのに、半世紀にわたって、次から次へと替わってゆく若い担当者を相手にし続けているんだと。なんという恐ろしくも過酷な戦いであろうか。


民主主義の原点としての住民参加は納得するし、この一件で失われる緑を惜しむ方々がいることもわかる。しかし、私はこういった道ができるより、こちらのほうがしみじみと悲しい。

 
 
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これはわが家の近所。グーグルマップの写真で、数年前の姿。

右手の木々は牧場でした。現在はベビー洋品店とその駐車場に。左手はコンビニと駐車場。奥にはマンション。この写真に写っている木々はほぼ全滅。

最近、ストリートビューの画像を保存することが多くなってきた。代替わりで土地を売る地主さんが急増しているのか、雑木林が次々とマンションに、チェーンの外食店に変貌しているのである。小金井に長く住んでいる作家の黒井千次氏が、エッセイで同じようなことを書いていた。雑木林が失われ、近所の古い家の庭先の柿の木がなくなっても、心が痛むけれど何もできない、と。

私は日本各地の古い建築や町並みを眺め、記録してきた。これは「消えていくものを黙って見ている」ことの繰り返しだった。バブルのときの東京の大変貌も同じ。傍観者の自分は諦念。ただもう諦念。


何と言ったらいいかなあ、緑を残して、と行政相手に掛け合える人々は幸せだと思うのである。地主に文句を言えないし、言ったところで、彼らにもさまざま理由はあるわけでね。
ウグイスの鳴いていた屋敷森が消え、あとに書割りのような建売り住宅が並び、トンチキな住民が電飾屋敷の玄関先でパーティーをはじめても、こちらは黙って耐えるしかないのである。こういう人たちに限って、田舎に帰ると豊かな自然を満喫していたりするのだ。

地元で友人ができるなら、この郊外生活者の悲哀をしみじみ語り合える人がいいのだが。ほんとにそう思います。
 
 


 


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