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2011/03/29

原子力発電の思い出 その2

 
前回の続きです。何度もいいますが、実に恥ずかしい思い出です。
 
 
広瀬隆の著作を読み続けた私は、政府の嘘、電力会社の嘘に慄然とした。事故の恐ろしさよりも、「平気で物事を隠し、嘘をつくえらい人たち」に恐怖したのだ。国内の消費電力量の嘘、発電コストの嘘、さらには立地予定地に大量に投下される交付金の現実と、使い捨てられる原発労働者の人々などなど。

私は思いましたね。どうしてこの問題が報道されないんだろう。

さらに考え、イライラはつのります。親も教師も友人も、誰もこの問題を知らない。知ろうともしない。
 
 
みんな馬鹿ばっかりだ。

 
そう、これって、一種のエリート意識になってしまうんだよね。

また、「こいつらはどうして問題意識をもたないのか」という焦燥感は、中途半端な社会運動家が(私は全然運動してないんだけど)陥りがちな精神状態なんだろうな。

余談だが、昭和20年代の後半、新劇の俳優の間で共産主義運動が盛り上がり、小劇団に次々と日本共産党の細胞(支部)が誕生して劇団首脳部と対立したという。メンバーの多くは日のあたらない下積み劇団員で、首脳部の看板役者をつるし上げ、「革命が起きたら、人民裁判でお前たちは死刑だ」と言い放ったらしい。当時の世相で、すぐにでも社会主義政権が誕生する錯覚をもっていたんだろうね。
(のちの学生運動でも、冷戦下の反核運動でも、同じような人々が登場して『選ばれた者の立場からの』勘違いを繰り返すのだ)


 
 
原子力発電所の話に戻ります。

 
原発事故は怖いけれど、どうもすぐには起きそうにない。社会は何ら変化がなく、日々同じような日常が続く。空を見上げれば、いつもと同じ明るい太陽。街をゆく楽しげな恋人たち。どうして自分だけがびくびくしながら受験勉強しなければいけないんだろう。くやしい。
 
そして、ついには思ってしまうんだ。

 
事故が起こって、みんな苦しめばいいのに。


どうです。いかにもダメダメな10代らしいでしょう。

まあ私は小心者だったから、そう考えながらも、罰当たりだな、と反省はしたんです。やっぱり死にたくはないし、平穏な暮らしが失われるのは嫌だ。
 
あとから考えると、これを本気で突き詰めていった集団がオウムなんだよね。あの組織の中心にいた人々のすさまじいエリート意識と、狂った使命感は凄かった。

 
そんなこんなで、いろいろ考え続けているうちに、私はもう原発について考えるのに、もうくたびれ果ててしまったのである。平和な世の中で恐怖や不幸について長い間考え続けるのは苦痛だし、本当に空しい。おまけに、社会に出て仕事につけば、誰だって当然ながら浮世のことで精一杯になるのだ。

 
あれから20年以上たちました。私がこの間にしたことは、原発を推進している政党に投票しないことだけだった。イデオロギーには全く興味がないが、これだけはずっと自分自身のルールとして守ってきた。
 
 
さて、最後に広瀬隆という人について。

彼の2冊目の原発本『東京に原発を!』(JICC出版)は、かなり話題となった。この本は前著とほぼ同じ内容ながら、イラスト多用した、非常にわかりやすく、かつエキセントリックな仕上がりとなっていた。主張は正しかったと思うし、現在再評価されるのは当然なのだが、どうしても好きになれない。この人物の本質はアジテーターなのだ。
(核実験場とハリウッドスターの死の関係を追った『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』も面白かったけれど、やはり何年か経って読み返したら、煽動的な構成が気になって仕方がなかった)
 
彼の本は焦燥感を駆り立て、読者を不安にするだけで、どうしても前向きな印象を受けることはできなかったのである。

 
ツィッターで、彼が出演した番組の映像を見た人たちがリツィートしあっているのを見たが、もう恐慌状態になってるんだよね。何たって、実際に事故が起こってるんだから、その精神的破壊力は私のころの比ではない。なんかもう、救いがなくて気の毒になってしまう。


ドイツの州議選で与党が歴史的大敗をし、反原発を掲げてきた緑の党が勝利した。今後しばらくはこのような動きがヨーロッパを中心に広がるとは思うが、結局は原子力発電をやめない国が多いと思う。
原発の是非以前に、日本という国の原子力行政のあり方とその運営が、ありえないくらい特殊かつ杜撰だった、いうことで収束するんじゃないかな。われわれはもっとうまくやれる、と。あっちは合理的な人も多いしね。
 
http://www.francemedianews.com/article-70296514.html
必読。
 
 
この状況を、日本人の手でどれくらい変えることができるだろうか。

今回の災禍のツケは東電ではなく国が負担する。つまりは国民の税金でまかなうことになる。
 
 
私は文句を言わず支払う。
日本のエネルギー政策が変わるのであれば、どんなに税金が上がっても払う。
 
声をあげなかった人間のひとりとして、黙って負担に甘んじる。
 
 
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2011/03/28

原子力発電の思い出 その1

 
事故から2週間以上経っているのに、相変わらずの対応に終始している東京電力や原子力保安院という組織には本当に驚かされる。
 
無能なトップや幹部が退場して、適切な情報公開とともにてきぱきと仕事をすすめることのできる、「実務」のプロフェッショナルたちが、そろそろメディアに登場するのではないかと期待していたのだが、どうも駄目みたいだ。どんな組織でも、そういう人材が必ずいるもんですが。

 
さて、今回から原発に関する、私自身の思い出をお話します。自分の中では思い出したくない、かなり恥ずかしい話です。

 
広瀬隆の著作を初めて読んだのは高校生のころである。『原子力発電とはなにか…』という解説本で、仲のよかった従兄弟が貸してくれた。たしかA5版くらいの、ブックレットといった体裁の本だった。同じ年に『東京に原発を!』(jicc出版。現在の宝島社である。懐かしい)が出版されているが、こちらを買ったのはもう少しあとだった記憶がある。
 
この本には影響されました。高校の政治経済のレポートでも、保健体育のレポートでも国語の感想文でも、このテーマについて書いた覚えがあるもんね。内容はといえば、まさに今回のような大事故の可能性、というか必然性を予見したもので、政府の原子力行政と電力会社の矛盾と嘘をわかりやすく指摘したものであった。面白かったのは、彼らが提示する資料から矛盾点を指摘していることだった。これが実に説得力があったのだ。
 
 
2年の浪人生活ののちに大学に入り、私は新しい友人とふたりでゴールデンウィークに国内旅行に出た。
忘れもしない、あれは名古屋の近くを走るローカル線の古いディーゼルカーの車内でのことだ。ボックスシートの前の席に座っているおじさんが読んでいた、読売新聞1面のヘッドラインで、私はチェルノブイリの事故を知ったのだった。1986年5月1日のことである。
(この時点で事故から1週間近くたっていた)

 
ああ、原発の大事故が起こったんだな、と思いながらも、私はあんまり心が動かなかった。

 
「いいんだけど、ちょっと説教くさいよね」 と、インディーズ好きの仲間と話していたブルーハーツが『チェルノブイリ』 を出したのが1988年の夏。RCサクセションが『COVERS』 を出したのも、その年の夏。反核・反原発が若い人の間でそれなりに盛り上がり、『アトミック・カフェ』 の再上映会などが都内で催されていた。

 
感心はしたが、どうもその『お祭り』に参加することには躊躇があった。


理由は簡単だった。私は高校・浪人の時期に、原子力発電について考えることにくたびれ果ててしまっていたのである。


次回に続きます。
 
 
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2011/03/27

原発の作業員 その2

 
きのうの続きです、ぜひ、前回分よりお読みください。

 
 
「原子力の安全性について、あなたはどう思いますか」
 

喋り終え、聴衆の反応に満足して腰掛けていた講演者(原子力発電所の下請け会社社員)の顔に動揺が走った。今回の集まりで、その手の質問を受けることを想定していなかったのは明らかだった。「えーと」 マイクを受け取り、彼は半笑いで答えた。

「日本の原発は安全ですよ。事故は絶対に起こらないんです」

質問者は再びマイクを要求し、重ねて問いかけた。

「絶対に安全といっても、放射能の問題や…」

客席の人々の間に、白けた雰囲気が広がった。その日の多くの参加者が望んでいない問いかけだった。かみあわない質問と答えが何度かやりとりされたあと、議論を打ち切ろうとした講演者はマイクを手に叫んだのだ。

 
「大丈夫なんです! 私を信じて下さい!」


こういう人たちが、原発の現場を支えているのか。学生時代に見て衝撃を受けた樋口健二の原発写真集を思い出し、私は涙が出そうになった。
 
 
彼は自分の人生を露悪的に語っていたが、気弱そうなところ、少狡そうなところも含めて、ごくごく一般的な中年男性であり、明らかに善人だった。恐らく彼はいつもこの言葉で妻子の不安をおさえ、そして自分の心の平穏を保ってきたのだ。

 
「政治的な問題は、今回の集まりの趣旨とは異なりますので、質問はこれで終わらせていただきます」

司会者が事務的に宣言し、講演は終わった。その後はそれぞれのテーブルで、参加者が食事をしながら語り合ったのだけれど、何を話し、聞いたのかまったく記憶がない。

 
 

http://www.asahi.com/national/update/0326/TKY201103260185.html?ref=reca
「東電、2号機の高放射線量を事前把握 作業員らに伝えず」(asahi.com 3/26)
 
 
 
原発の話は、次回ももう少し続けたいと思います。1980年代初頭に広瀬隆の著作に触れ、戦慄した苦い思い出です。同様の記憶をお持ちの40代の方も多いと思います。
 
「誰でも手に入る資料で」論をすすめ、立花隆を感心させた広瀬氏ですが、私はこの人物をどうしても尊敬できません。

 
次回に続きます。 

 
 

 
 
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2011/03/26

原発の作業員 その1

 
今から10年ほど前のこと。私は知人に誘われて、都心で開かれたある昼食会に出かけた。さまざまな分野で活躍している人どうしの交流の場を設けるという趣旨の集まりらしかった。私は最初の本を出版した直後だったので、駆け出しのライターという肩書きで参加したのだ。

神田の街を見下ろす某レストランの宴会場には円卓が並び、正面には演台が置かれている。100人近い人が集まっていたのではないだろうか。主催者の挨拶の後に、何人かが順番に演台に上がり、喋りはじめた。
 
講演会形式の集まりだとは思っていなかったので、私はちょっと驚いた。朝食を食べていなかったので、目の前に置かれた折り詰めが気になったが、誰も手を出している人はいない。参加者の多くは目を輝かせて話を聞き、よく笑っている。

 
3人目の演者の話が始まった。30代後半のこの男性は、仕事の話が中心だったそれまでのスピーチとは異なり、自分の人生について延々と語り始めた。結婚と離婚、ギャンブルにのめりこんだ日々、借金苦と自殺を考えた日々など。

 
話が佳境に入ったとき、彼はぽつりと言ったのだな。


「こんなとき、友人が言ってくれたんです。BTコースを受けてみろよ、と」


場内に爆笑が起こった。笑っていない人は、私を含めて2割くらいだったろうか。 

もうお分かりの方も多いと思います。この居心地の悪い昼食会は、そのむかし流行った、自己啓発セミナーの集会だったのだ。

 
 
誘ってくれた知人の言動からそれは分かっていたので、特に驚きはなかった。正直、どんな集会なのだろう、どういう人々が集まるのだろうという好奇心が大きかったのである。逆に、ストレートな勧誘や折伏がないことに拍子抜けしたくらいである。

そして、この三人目の演者の人の仕事は、原発の下請け企業の社員だった。彼は聴衆を盛り上げようと、今度は自分の仕事についても話し始めた。


大きな拍手とともにスピーチが終わり、何か質問がある方はいらっしゃいませんか、と司会者が声をかけると、ひとりの初老の男性が手をあげた。それまでは質問をする人はいなかったが、この男性は話の途中からイライラと落ち着かず、憤懣やるかたないといった表情で、発言の場を待ち望んでいたのである。

そしてこの男性は私と同じく、明らかにこの場のメンバーではなかった。彼は言った。

 
「原子力発電所の安全性について、あなたはどう思いますか」
 
 
次回に続きます。

 
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2011/03/25

藤波心さんの意見表明について

 
http://ameblo.jp/cocoro2008/entry-10839026826.html

ここっぴーのへそっぴーですよあなた。
 
 
いやあ、感心した。中学校で教えていると、授業中に発言しなくても、レポートでこういうふうにしっかりと自分の意見を書いてくれる子がいるんだ。

コメント欄がすごいことになってるんだけど、13歳の女の子を相手にヒステリックになっている輩は論外として、原子力の必要性を今回の災禍以前の常識で説いている人が多いのに驚かされる。原発と他の発電方法の稼働率の推移や消費電力量など、ちょっと調べれば分かることが多いのだが。

何にせよ、電力の大量消費時代が終わったことは明らかである。江戸幕府の瓦解や敗戦のときと同様に、日本人は新しい時代に入ったのだ。

変な話だが、頭のいい人、目先のきく人の中には、脱原発時代に舌なめずりしてる人もいると思うよ。そういう人が、新時代の岩崎弥太郎になるんだろうね。
 
 

 
 

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2011/03/23

要は日本でも生水がのめなくなったということで。

 
「ひさしぶりにガソリン入れて灯油を買えたと思ったら、今度は水だよ水。困ったなあ」
 
「うちのは(3歳児)あんまり水のまないよね。牛乳ばっかりで」
 
「牛乳がまた品不足なんだよな。そうそう、炭酸水もそのうち品薄になるんなろうねえ。ハイボールが作れなくなると困るよ」
 
 
「さっき、タンクローリーが通りを走ってたでしょ」
 
「タンクの上に、腕にボウガンはめたモヒカンの男が乗ってたか」
 
「なに言ってんのよ。ガソリンの輸送車じゃなかったみたい。どういうわけか、モンドセレクションのシールが車体に貼ってあったの」
 
「なんだいそりゃ。タンクにジュースでも入ってるのかな」
 
「そうだと思う」
 
「みんなで乗っ取って積荷を奪ったりしてね。中身はなんだろうな。カルピスの原液だったりして」
 
「それじゃ水で薄めなきゃ駄目じゃない」
 
「そうか」
 
 
 
 

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丸田祥三さんのトークイベント

 
写真家・丸田祥三氏のトークイベントを新宿まで見にゆく。司会は歌人の枡野浩一、ゲストは切通理作。会場は職安通りにある新宿NAKED LOFTというライブハウスで、なんだか見覚えがあると思ったら、昔はへんなエスニック酒場だった店だ。10年ほど前に、某有名芸能事務所の人とここで朝まで呑んで、そのまま1時間目の授業に行ったことがあった。あれは辛かったな。

丸田さんは鉄道と廃墟の写真で知られる写真家である。同世代の東京育ちなので、少年期にほぼ同じものを見ているということもあり、以前からファンなのです。
 
今回はスライドで、目眩がしそうないい写真を何枚も拝見することができた。写真集や雑誌ですでに見ているものも多かったけれど、いやもう、本当に頭がクラクラしました。ただ素晴らしい、懐かしいというのではなく、自分の記憶の引き出しを他人に見られているような感覚なのだ。客席には若い人も多かったが、恐らく彼らとは感じ方がだいぶ違うと思う。
 
丸田さんの写真は、被写体やその歴史的背景に敬意が感じられるのが好感がもてる。前にも書いたけれど、お化け屋敷感覚で廃墟を撮っている人も多いのである。なんだかそれだけではもったいない気がするんだよね。

枡野さんと切通さんによるサーヴィス精神あふれる進行が楽しく、写真業界の裏話も興味深かったけれど、個人的には、もう少し写真の内容や歴史について踏み込んで解説して欲しかったと思います。今後も第2弾、第3弾を予定しているようなので、ぜひまた参加してみたい。
 
 
 
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灯火管制下の新宿。

ヤマダ電機に寄ったが、店内のBGMが一切ないのが新鮮だった。
音楽のない家電量販店は本当に静かです。
 
 

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2011/03/22

連休最終日の外食

 
家族で近所のファミリーレストランへゆく。

雨模様だし、このところの報道で外に出る人も少なくて空いているだろうと思っていたら、すべての席が家族連れで埋まっておりました。地震から10日を過ぎて、東京に残っている人たちも、そろそろ不安でありつづけることが面倒くさくなってきたのだろうな。いい傾向です。
 
 
原発の放射能はそりゃ怖いが、われわれの爺さん婆さんの世代は(私だと父母だけど)、東西冷戦のさなか、西から東から押し寄せる放射性降下物のなかで高度経済成長を成し遂げたのだということを忘れてはいけません。「三丁目の夕日」の時代のもうひとつの側面を振り返った方がいい。
 
 
こういう記事が新聞に出てた時代ね。
http://speedbird.air-nifty.com/speedbird911/2006/08/post_1be9.html 
 
どう考えても、この頃の方が問題だったと思うんだけどな。健康上も、情報開示の点でも。
(ついでに言うと、このあと日本人の平均寿命はどんどん延び始めるのである)
 
 
政府も「大丈夫、大丈夫」と言うんだったら、当時の米ソの核実験のデータと比較した方が国民も納得できると思う。アメリカの方々も、日本からの放射性物質にビクビクする前に、ネバダ核実験場の後始末を振り返ってみましょうよ。
 
 
 
Gagagism
 
といいながらも、ガガ姐さん、募金ありがとう。革ジャン素敵ですね。
 
 
 
 

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2011/03/19

停電時でも使える電話

 
ADSLだのISDNだの、光回線だのIP電話だのと、最近の電話はどうもよくわかりません。アナログとデジタルの違いぐらいはぼんやりと理解できるんですが。

停電前にコンセントを抜いて確認したところ、わが家のFAX電話の親機はまるっきり使用不能な模様。最低限の通話機能は確保される機種もあるようですが、やっぱり安物は駄目だ。
 
 
というわけで、停電のときは普段は仕事机のオブジェと化しているこいつを使うことにします。

 
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4号電話機。 
 
 
モジュラージャック仕様に改造してあるので、差し替えるだけでOK。
  
もっとも、うちはプッシュ回線(注)にしているので発信はできません。受信のみ。早いとこパルス回線に契約変更しておけばよかったなあ。でもまあ、こういうときはあまりよそに電話しないからね。停電区域外の人の電話を受けられればいいや、ということで。

 
子供のころ、電話というのはコンセントがないのにどうして使えるんだろうと疑問に思っていた。黒電話は、電話局から電源を供給されているので、停電時でも使用できるのである。

ちなみに妻の実家はまだ黒電話が現役。停電中でも携帯を使わないで通話ができます。うちの近所、ドコモが結構混んでるもので、実家からの連絡を固定電話で受けられるのは安心だ。

 
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実家のはこのタイプです。これは600型といって、おそらく最終期の黒電話。
 
4号とのデザインの違いにご注意。独特の流線型がなくなってシンプルになってます。
ちなみに3号電話ってのはほんとに古色蒼然としています。電話機のデザインの変化は結構面白いので、興味のある方は検索してみて下さい。
 
 
黒電話的に使える機種はあるのかと思って検索したら、こんなものが。
 
http://blog.livedoor.jp/bousai/archives/29035240.html
 
シンプルでいいですね。当然もう売り切れてるんでしょうけど。

 

関係ないけど、昔から好きなページ。何度見ても欲しくなる。
ものすごい変態度、いや創意工夫だ。

http://www.geocities.jp/ttrmkr/Elec/keitai-kurodenwa/keitai.htm
 
 
 
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2011/03/18

馬鹿丁寧って、あんまりいいとは思えんよ

 
枝野官房長官。

「検討している段階で、軽々にお話申しあげるべきではない」

「全力を挙げて取り組ませていただいているところだ」

「しっかりと対応させていただきたい」


蓮舫消費者相。
 
「1週間前に比べて2倍の商品を出させていただいていますので、 どうぞ冷静な購買行動を」
 
 
何だろうなあ、この言葉づかい。国民を馬鹿にしているつもりはないだろうから、慇懃無礼というのともちょっと違うんだろうし。テレビを見ていてこそばゆいというか、いらつくというか。

昔の政治家はこういう物言いはしなかった。べつに高圧的に喋って欲しいわけではないけれど、普通に国民に語りかけろよ、と言いたくなる。

 
これは震災前から気になっていたことでありまして、昨今は政治家に限らず、司会者もタレントもみんなこういう物言いになっているんだよね。以前、こんなことを書きました。
 
 
http://speedbird.air-nifty.com/speedbird911/2010/02/post-283a.html
「誰も彼も、叩かれまいと」

 
今では人前で喋るのは、こういう言い方が当たり前になったんですかね。みなさんは違和感や不快感を感じませんか?
 
 
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岩沢海水浴場。東京電力広野火力発電所に隣接している。

遠くに見える岬の向こう側が、福島第2原子力発電所。直線距離で6km弱。
第1原発は、さらに10kmほど北にある。2010年7月撮影。 
 
20km圏内。なんだかもう、やたら公共施設が充実している地域でした。
 
 


 
 
 

 

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2011/03/16

懐中電灯を買ったはいいが

 
以前ご紹介したら、譲ってくれというメールをかなり頂きました。あちこちの友達にあげちゃって、もうほとんど残っていないんですよ。これが。 
 
http://speedbird.air-nifty.com/speedbird911/2007/08/post_4092.html

さて、今回の停電で残りの懐中電灯が役立ったかと申しますと、単一電池が切れてまして、どこへ行っても売り切れで、ほとんどが役に立たないというお粗末。
 
まあ、 LEDのヘッドランプの方が段違いに明るくて便利だったりしますが。
 
 

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停電の夜

 
 
私の住んでいる街では、今夜初めて電気が消えました。
 
わが家はストーブがちょっとしたランタン並みに明るいので、あんまり照明がいりません。
 
 
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トランジスタラジオ用の9ボルト電池を買ってきた。あの四角い電池だけが売れ残っていたのである。

 
2
 
 
 
仕事部屋で、息子と学研のふろくについていた簡易プラネタリウムで遊ぶ。
 
 
3


 
安穏とした停電生活で、被災地の方々に申し訳なく思います。

 
東電と政府の原子力政策には、言いたいことが山ほどあるが、それはまた今度。

 

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2011/03/03

東武鉄道の大英断


朝一番に新聞を広げて、このニュースに驚倒いたしました。


http://www.asahi.com/travel/rail/news/TKY201103020540.html
スカイツリーの玄関口、レトロに模様替え 浅草駅ビル


屋上の遊園地は廃止、上階は閉鎖と、このところ不景気な話題しかない東武浅草駅(浅草松屋デパート)が、乾坤一擲の大勝負に出るようです。凄い。本気だろうか。


東武浅草駅ビルの現状。


1


何だかパッとしない建物に見えますが、これは満州事変の年、昭和6年(1931)完成の駅ビルなんです。昭和40年代に、老朽化した洋式建築の外装の上にアルミのパネルを貼ってしまったんですね。日本橋の東急(白木屋)の晩年も同じでした。

 
完成時の姿はこちら。すばらしい大建築です。

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設計の久野節は、大阪の南海ビルディングも手がけている建築家。

奥のアーチが連続している部分が、東武線のプラットホームがある場所になります。ちなみに右上に見える鉄橋は現役。ビルを出た電車は、ものすごい急カーブをゆっくりと曲がって隅田川を渡ります。
写真右下に見えるへんな塔は雷門ビル(地下鉄ビル)といいまして、尖塔こそ失われていたものの、数年前まで健在でした。


この建物、実は方々にかつての痕跡を残しています。

3
 
ビル裏手の壁面。パネルを貼っていない部分はこんな感じです。

 
 
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階段室と手すりの装飾。

 
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踊り場にある怪しげな扉。

 
ほんとに復元できるのかいな、とちょっと心配になってしまうだが、実現したら名実ともに浅草のランドマークになると思われる。ものすごく楽しみである。現在、浅草駅前で往年の面影を保っているのは神谷バーと地下鉄の出入口くらいなのだ。

 
浅草という街は、懐かしの風物を売り物にしているわりには、戦前の見事な建築物を次々と破壊してきた歴史をもっている。国際劇場から始まって、六区の映画館(常盤座や東京倶楽部の素晴らしかったこと!)、仁丹塔、数々の看板建築、雷門ビルと、戦前の歓楽街の雰囲気を感じさせた名物建築が消えていき、訪問するたびに残念な思いをしてきたのである。川向こうの吾妻橋ビヤホールがうんこになってしまって久しいが、あれを見てももう何とも思わなくなっている自分がまた悲しい。

しかしまあ、改装していたとはいえ、下にオリジナルがあったからこういう計画ができるわけです。どうやら古い建物が本格的に商品になる時代がやってきたようだ。だって、丸の内では莫大なお金をかけて、明治時代の三菱一号館を再現してるんですよ。本物を壊したのに

三菱のプロジェクトを目前で見ながら、三信ビルを解体した三井不動産は、本当に失敗したと思うよ。あれは建物だけで人を呼べた物件だったのである。
 
 

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